2月中旬に、disk union吉祥寺店でオザケンのファースト『犬は吠えるがキャラバンは進む』を30年(!?)ぶりにして、“は じ め て”手に取った日から、聴けば聴くほど細胞に染み込んでいくような、そんな感じがしています。本当は、1曲ずつ感想というか思いを綴りたいのですが、もうちょっとまだまとまらないので。
オザケンご本人による『犬は吠えるがキャラバンは進む』に言及したtweet
でも、6曲目の「カウボーイ疾走」を聴いていて、いつもこの部分(今日のブログのタイトル)が耳に入ってくるので、今日こそは、特にこの部分についてだけでも何か書いてみようと思った。
普段、曲を聴いていても積極的に歌詞を辿ったりしない(聴き初めは)。ある程度聴いて、この曲ほんとに好きだなーとなった時に、何唄ってはるんやろ、と思ってしっかり確認する。が、この曲のここの部分は、早い段階で耳にぱちーんと入ってきて、毎回しっかりsing alongするほどになってしまった。
いつも、小山田(敬称無しかい)が頭をよぎる。rockin' on JAPANで「上昇志向の人はやだ」みたいなこと話してた小山田(敬称つけてよ)やcorneliusとしてのファースト『THE FIRST QUESTION AWARD』での斜に構えた感じの歌詞を書いた小山田(敬称...)や昔のいじめのことが改めて問題視された時にうまい身の振り方がわからなかった小山田(敬称略)など...。
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2人がソロになった辺り、私はただの中学生だったので、それはもう2人の一挙手一投足は、私の世界の全て、くらい、私の世界は狭かった。2人やその2人を取り巻く人たちの情報はなんでも知りたいくらいに思っていた。その頃インターネットなんて日常じゃなかったので、情報を集めるのには限界があって、メインの情報源が rockin' on JAPANだったもので、私は2人の間に何かあったに違いないと憶測に憶測を深めてしまっていた。どうやら、その頃のよくない(と今はわかる)癖が残っているようだ。
(20年前も、去年も、結局私はメディアや人々の作る何か...ゴシップのようなものに踊らされていたのだと思う。)
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オザケンよ、若くしてよくこのような歌詞を書いたなあ。しみじみ思う。
最近、昔ほど人に出会うのが怖くなくなっている気がする。全然得意じゃないし、できれば出会いたくはないけど。生きていると、毎日、自分で生きなければいけないので、人と接さないということが無理だということがわかった。いろんな人がいるのもわかった。人の考えや行動を自分がどうにかできないこともわかった。わかったら、怖かったり悩んだりするのにはあまり意味がないことに気づいた。
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すぐにゼロかイチか、で話を進めるのはよくない。
物事の本質が見えなくても見ようと努力するのがよい。
見えているものだけにとらわれて、動けなくなることはよくない。
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それこそメディア的には、“あり得ない”と思われていると思うが、フリッパーズギター解散40周年記念ファンパックとか売り出して欲しい。もちろん、レコード会社(というか曲の権利を有する会社)が勝手に並べ替えて、残ってた写真とか全く世代の重ならない(お母さんがフリッパーズのファンでしたとかいう)若手のセレブクリエイターのarty jacketとか、そんなものは要らない。2人の共同作業の上で出来上がったようなもの、共同というのが難しいとしても、せめて、各自が新たに創作したフリッパーズにまつわる何か、が入っているものが欲しい。
もちろん私はファンだったから、ということもあるけど、それをやるということ、それが“できる”ということに意味がある。文字にするとなんとも無意味に聞こえるかもしれないけど、小沢健二が今ソロでやっていることはそんなことなんじゃないかなと思う。別にオザケンが優で、小山田が不可だから、とかそういうことじゃなくて。
生きていると人と関わらずには生きていけない。それは人を必要とする、ということもあるが、人の干渉を受けずに生きられない、ということでもある。30年経って、私がオザケンを「オザケンっていいな〜」と思えるように「小山田いいな〜」と思えるようになったら、渋谷系をリアルタイムで生きたファンとしては、これ以上ない幸せだろうな、と思う。
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