こうしてKANさんの作品を能動的に聴いたり見たりするようになると、日々のあちこちにKANの要素が散らばっていることに気づく、というのは少し大げさかな。
そういう要素がある、と私が感じるのは私の考えによるものだから、当たり前と言えば当たり前でもある。
例えばKANさんのファンじゃないにしても、『愛は勝つ』が大ヒットした90年代、テレビやラジオを聴くなどしていた人は、どこかで当時のKANさんの曲を聴いたりしていたと思う。私もそうだった。特にファンでもなく、むしろ以前言及したように『丸いお尻が許せない』というタイトルがサビの歌詞にもなって巷を駆け抜け、思春期の私の複雑な心を刺激したお兄さんに、好意を持てず、どちらか言うと避けたい人になってしまっていた私のような人にとっても。
KANさんがこの世界ではないどこか遠くへ旅立たれたというニュースを聴いてから、Apple MusicでKANさんの音楽を聴いていると、これ知ってる、これも知ってる、となって少し驚いた。90年代から、すっかり忘れ去っていた、実に30年前の記憶が、あらぬ方向から戻ってくるという、脳に一撃をくらわされたような感じになった。懐かしいのか新しいのか嬉しいのか悲しいのか訳の分からない感情が溢れる。
・REGRETS(1989年9月1日)
・言えずのI LOVE YOU(1992年3月25日)
・KANのChristmas Song(アルバム「TOKYOMAN」1993年2月25日)
・MAN(1996年5月27日)
・Songwriter(1997年8月27日)
・サンクト・ペテルブルグ(1998年2月5日)
・桜ナイトフィーバー(2015年2月25日)
Apple Musicを聴いていて、知ってる!となった曲を挙げてみたが、やっぱり90年代が多い。これらの曲から、KANさんが影響を受けたであろう人や音楽だけでなく、KANさんが影響を与えたであろう人や世界が見えてくる。私自身のその当時の記憶も混ざる。ああ、これは感動、というものなんじゃないかな、とか他人事みたいなことを思った。
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京都大学 情報学研究科の神谷教授の研究について読んで、ふと思った。人の死とは何か、とか。人は生きている人とコミュニケーションができる。言葉や身体を用いることがほとんどだけど、行動には脳波の変化が伴うので、言葉や身体を通さず、脳波で直接コミュニケーションもできるということであれば、言葉を発さなくても、体を動かさなくてもいいということになる。現在は、心臓の停止が、人の死を意味すると考えられていると思うが、では、言葉や身体によるものより、脳波によるコミュニケーションが普通の世界があるとしたら、体の動きを司る心臓の停止には意味はなくて、人工的だとしても心臓が動き(血の循環があり)、脳が動くのだとしたら、脳波は送ることができて、それはその人の死ではないのではないか、など。この少々飛躍した変な思考は、私のKANさんへの永遠の片思いのなせる業なのかなんなのか。
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インターネットの普及による恩恵と社会における禍がある。私は禍に重きを置いて考えてしまいがちだが、KANさんのことがあって、その良いところを認識することになった。もう居ない人の声を聴ける。作品に触れられる。そんなことこれまでもそうだったけど、インターネットがあれば、比較にならないくらいたやすく見つけることができる。
私が話したいのは、そういうことだけではなくて、KANさん自身からの発信したいという意思のことである。公式ホームページといい、インタビューといい、書籍といい、その最たるものである歌詞といい、どのような意図かは、初心者ファンの私には語ることはできないけど、何かを発信しようという意思があるのがひしひし伝わってくる。意思が感じられるのと感じられないの、その違いで、アーティストの作品の意味もガラッと変わってくる、と私は思う。
元々ファンでなくて、30年近く私の人生にKANさんはいなかったので、どこか遠くに行かれたとして、それを悲しむ人々を通して悲しむことはあっても、私自身はKANさんの不在を感じていない、と思う。でもよくよく考えて、ファンであるというのは、元来そういうものではないのだろうか。一緒に仕事をしたり、一緒に暮らしたり、しているなら、そんな人が遠くへ行ったら、そりゃ悲しいし寂しいし辛いとも思うだろう。でも元々私とKANさんの間には、KANさんの作品とそれに付随するものと、私と私の解釈しか存在しない。それはKANさんが遠くに行かれても同じ。もう新たな作品はないし、ライヴを観れないけど、これまでのものがあるではないか。
KANさんが今、近くに居たとして、KANさんが伝えたいと思って発信していること以外は、いくら知りたいと願ったって、ただのファンである私は、それ以前にKANさん自身でもない私は、未来永劫知ることはない。そういうことでしょう?
でもこれははっきり言いたい。ファンになるのに、遅いも早いもない。ただ、その人と作品とそれを解釈する人、その関係性だと思う。早く気づいていればよかったなんて思わない。巡り会わなかったのには、理由がある。それをアーティストの発信力不足や、消費者のアンテナの弱さが原因とするのはいかがなものか、と思う。理由は単純で、それが人生というものだから、である。
ああ、KANさんの話になると、どんどん思考が発散していってしまう。これはとっても素敵なことです。❤︎❤︎❤︎❤︎
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