(タイトル出典: 『songwriter』by KANの歌詞を一部抜粋)
(タイトル出典がKANさんなのに、いきなりオザケンの話題で申し訳ないが)オザケンがinstagramとXで、小沢健二の作品のうち、ファンからの人気が高いと思われる『ぼくらが旅に出る理由』について言及した。ギターコードに関しての話だった(図1参照)。
おそらくギターを弾いたり、作曲する人にとっては、意味を理解できると思うが、私を含めた大抵の人は何のこっちゃ、だろう。でも、私も幼少期にピアノは習っていたし、ここ20年ほどギターを''触って''はいるので、どのような話かは何となく、本当に何となく分かった。和音という概念がある。単一の音ではなくて、何個か一緒に弾いて、じょわーんというあれです。それのベース音をどうするか、ということで、普通(というのも表現が乏しいのは承知の上だが)の和音に、ベースの音を追加することで、低音が響く、というか何か別の効果を付与するというか、そういう感じで、そういう点にこだわって、曲をアレンジしているよ、ということだと思う。
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ここで、ふと思い出したのである。KANさんの『プロポーズ』(1991年5月22日発売の「ゆっくり風呂につかりたい」に収録されているヴァージョンのもの)を。何度も何度も何度も、このブログで書いてるが、私はKANさんのファンじゃなかったけど、『プロポーズ』を特別に思っていた、平たく言えば、ずっと大好きだった。KANさんに対して、警戒''体制''を取っていた若かりし日の私だったが、そういった世の中のめんどくささのようなもの全てを凌駕するメロディの美しさがあった。音楽の専門的なことは分からないけど、三つ大きなポイントがあると思っている。一つは、イントロ部分の少し、ほんの少しうっすら感じる不安な感じ。鳥の鳴き声が少し大きすぎて、メロディから浮いてる感じもあって、それも含めて。二つ目は、1番の歌詞で言えば、「(おいこしたりは)しない〜」の箇所(1番では2箇所、2番では4箇所、コードで言えば、Gm7)のメロディの、不安な感じとKANさんの声とビブラートの妙であり完璧なバランス。三つ目は、2番の「楽になってきたろう〜」のところから、(それ以前はただのD7だったところに)ベース音(F#)が追加されることである(図2参照)。特にこの三つ目の要素は、何度聴いてもそのところで脳みそが溶ける(感じがするくらい好きである)。
これまでも、いろんな人の好きな曲を自分でも唄いたいと思って、ピアノ、ギター、ベースを練習してみたり、バンドに入ったりもしてみたが、いつも不完全というか、しっくりしない感じがあった。しかし、2017年にオザケンが戻ってきて、オザケンがPiiの『カキツバタ』を弾き語っているのを見たのがきっかけで、またやりたいと思うようになって、これまでは誰かのサポートとして演奏することしか考えてなかったけど、自分でやればいいということに気づいた。というかむしろ、この前、渋谷公会堂で初めて本物の小沢健二を見て、昨年の年末からKANさんの作品を聴いて、私も自分のためにやらないといけない、というふうに感じた。
で、昨年12月に、KANさんに呼ばれて『プロポーズ』を弾き語りたいと思うようになり、インターネットでコード表を見つけた。そのコード表では、上述の三つめの要素がしっかり再現されていた(図3参照)。好きな歌を唄う、ということ自体もそうだけど、ギターでコードをポロンポロンと弾くことは、実はすごい癒し、だと思う。そのF#が追加されたコードを弾いて、うっとりしてしまうので、毎日ギターを弾きたくなる。中毒である。ただし、弾き語りが上達するのとはまた別の話ではある。
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なので、オザケンのSNSへの投稿について話を戻すと、作曲者本人のそういったアレンジなどに関する意図が聞けるのは、本当にありがたく、ファンとして至福である。私もオザケンの言うとおり、コードを弾いてみて、ああ、確かにと、またうっとりする。こういうことを共有できるということ、ここで今回の私のブログのタイトルに戻るが、私は作曲や作詞など、何か特別なことだけが表現ではなくて、日々、生き物は表現しながら生きていると考えている。我々は、表現するものと受け取るものが入れ替わり立ち替わり、相互のやり取りをしていて、それこそが生きることであり、存在意義であると考えている。私は、表現者としての、KANを心底尊いと思う(もちろん、オザケンも大好き)。
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