タイトル出典: 槇原敬之の『僕のものになればいいのに』(アルバム「Such a Lovely Place」) 自分に対しての基準が低い人が嫌いだ。と言うのは誤解を生む表現だな。正しくは、人に対する判断基準が高いのに、自分に対しては低い人が苦手だ。でもそれは自分がその傾向にあると自覚しているからだとも思う。こういうところに私のハラスメント気質はよく出ていると思う。 人と行動するのが苦手だ。でもそれは自分が輪に入れていないと感じている、私自身の問題なのだと思う。 同調、共感、若いものや新しいものをよしとすること、人は元々他人に対して無害であるという性善説のようなものが苦手である。無知な私に対し、高圧的な態度と裏にいやらしさを隠した社交性を持って接してくるような人に、私は出会い過ぎた。そんな人間、1人でも出会ってしまったら、ある人の人生を穢すのに十分な毒である、と思う。 それを、私は、私が女性であるからというのが十分条件と、ほとんど思い込んでしまうくらいには打撃を受けてしまって、今なお傷を押さえつつ生きていると感じる。 誰も自分以外の他人のことを決めることはできない。そんな権利はない。パーソナルスペースというのは身体的なものと精神的なものとがある(他にもあるかもしれないが)。人のことを勝手に推測してとやかくいうのは、よくない。越権行為であり、卑しく失礼な行動だと思う。主観の滲んだ表現になってしまった。もう少し落ち着いて、冷静な表現をするとすると、その人への尊重がないということである。人の領域にずかずか入ってくる側の人の理由は、何なのかよくわからない。だけど何故か、そういう人は弱い人間をうまく嗅ぎ分けて見つけてくる。偶然見つけてるのか、手当たり次第試しているのか、検知できるのか。 私は、被害を受けた側であり、実は驚くことにそういうことを人にしてしまう側でもある。そういった人の他人に対する侵略について、強い嫌悪感を示すパートナーに出会ったおかげで、少しずつ自分の行動を見直すことができてきたと思うが、完全にそういうことをしない人間になれるわけではないと思う。そういうパートナーもそういうところが全くないわけでもない。 人はそんなもんだということなのだろう。だけど、近い関係だと仕方ないこともあるのかもしれない。距離をまた取り直せばいい。だけど、それ以外の失礼...
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