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高い声について

  高い声が特に好き、ということはない。むしろ、低い声を響かせられる声量を持っている人をうらやましく思う。  私が中高大学生であった1990年代~2000年初期のころは、高い声の女性シンガーが特に流行っていたように思う。それをカラオケで歌うことが流行っていた時代でもあったので、私自身も高い声が出ることを、少しは誇らしく思っていたし、よく褒められもした。所属していた大学の研究室の教授から、「来る道を間違ったようだね~」と言われ、なんとも複雑な気持ちになったものだ。   30代の前半、バンドでコーラスをすることがあって、風邪をひいてのどを傷めているのに無理したせいで、声が出にくくなったことがあった。また同じころ、会社で、先輩と業務上、うまく行かず、会議などで話すときに、首から肩にかけて硬くなって、声が出ないというような症状もあり、そんなことがあって、意図的に高い声をあまり出そうとしないようになった。   今となっては、のどの不調もある程度落ち着いて、それなりに高い声は出る。でもそんなに高い声で歌いたいとはもう思わないし、特に高い声の女性シンガーの曲を好んで聴こうと思わない。  ********  このようなことをとりとめもなく考えていて、ふと、 思った。谷口崇さんの声について私はどう思っているんだ?(後述するが、谷口崇さんと言えば高い声、なので。)谷口崇さんは、男性のシンガーソングライターだが、とても声が高い。この表現はもしかしたら、ご本人は嬉しくないかもしれないが、時々「かわいい子どもの声」のように聞こえたりもするくらい高い。まず、私が上で話していたのは、主に女性シンガーの話なので、関係ないといえばそれまでだけど、私は、特に高音にジーンとくるというタイプではない。ここで、私の好きな男性シンガー歴(歴であって、今も好きかは不問)を見てみよう。  小山田圭吾、小沢健二、秦基博、藤原基央、KAN、Rex Orange County、Tyler, the Creator、さかいゆう、Chris Montez、中島卓偉、Thomas Mars、Momus、Julian Casablancas  並べてみて初めて、私はどちらかいうと高めの音域の、どちらか言えば優し気な声が好きな傾向にあることに気づいた。それでそういう優し気な声の人が、響かせる低音が好きなのだ。...

SNSについて

  菅野完氏が、SNSでフォロー数がフォロワー数に比べて大きい人について、意見を聞くに値しないとのようなことをよく述べている。そんな人の方が実際は多いと思うが、目に付く人は、それだけ勝手に流れてくるから目に付くのであって、そうじゃない人は全然目に付かない。  フォロー数が多いというのは、少し大雑把に整理すると、情報が欲しいと思う対象が多いってことで、 フォローしているアカウントが全てアクティヴであることを前提とすると、数百もフォローしていたら、適切に情報を処理できているとは思えない。まあ私がそれで、でも本当は情報を全て漏らしたくないと思うような対象があれば、Xなんか使わなくても、どうにかして情報を探しに行くのだし、そういう意味で、数百もフォローする必要は本当はない。  とすると、まあどうでもよいけど、情報があるに越したことはない、みたいに、情報について受け身である、ということになる。自分で情報を取捨選択しているようで、実は逆で情報に踊らされているということになる。  そもそも、SNSはインターネット上のコミュニケーションツールであって、アカウントは自分の窓口のようなものであって、SNSで情報を得るということを目的としていること自体、私は情報弱者なのだなと認識したところである。  

ねえ云える? いま星が光っている理由

 貴方の心を映しているからだよ (『あおぞら』by椎名林檎から抜粋)  この曲を、発売当時の1999年辺りに聴いた覚えはない。もしかしたらその頃つるんでいた椎名林檎を好きな友だちが聴いていた可能性もあるけど、『本能』のシングルのB面ということなので、シングルを買うようなファンでもなんでもなかったので、自分では聴いていないのは確かだ。  去年、偶然この曲をApple Musicで聴いて思ったことは、大体の椎名林檎のヒット曲とは違って穏やかだけど、始まりから鳴っている「ヒュンヒュン」という電波的な(イメージ)音がなんとも(その頃の)椎名林檎っぽい。『あおぞら』というタイトルと「大切な人が遠くに行ってしまったこと」を匂わす少し悲しげな歌詞と穏やかなメロディと声とこの電波音がアンバランスにバランスを取っていてなんとも不穏だ。不穏な穏やかさというか。  で、聴けば聴くほど、当時聴いてなくてこれまでも聴いてこなかったはずなのに、どうも懐かしくて仕方ない、そんな気持ちになる。  ギターで弾いて唄ってみる。大学1年の頃の、特に何てことはない、普通に過ごしていた日々が頭の中を駆け巡る。  私が気づいていないだけで、この頃の椎名林檎の作品には共通する何かがあって、その何かがこの曲にもあって、それに私の記憶を司る脳の一部が反応しているのだろうか。この電波音がそれなのだろうか。私はこの不穏な穏やかさが私のあの頃の不安定な精神状態を思い出させているせいなんだと思う。 ********  もうかれこれ数年、人前で演奏する(あるいはSNSにアップする)なら、何の曲を1番目にするか、ということを考えている。もしかしたらこの曲になるのかもと思いながら今日唄っていた。   後日談、2024年7月16日追記  今日の未明、寝苦しくて目が覚めた。正しくは、夢うつつの状態が、どれくらいかはわからないけど続いていた。頭の中ではずっと、この椎名林檎の『あおぞら』が流れていた。ふと、叫び声のような人の声が聞こえて、完全に目が覚めた。 一瞬だった。 自分の肩と首の辺りがこわばるのを感じた。その後、いくら耳を澄ましてみても、何も聞こえなかった。私はDV体験者なので、誰かの叫び声というものは、私にいろんなことを思い出させて、一瞬にして私を恐怖に陥れる。しかし、その泣き叫ぶような声が止んだ後、何も聞こえ...

CBGB、じゃなくて MCMQまたは魔法のかかる夜、大阪にいる

  オザケンのライヴに行ってきた。  実は生まれて以来初である。2023年9月30日に行われた小沢健二の母校、東大での講義 「東大900番講堂講義」の追講義である 「東大900番講堂講義・追講義 + Rock Band Set」(10月2日@旧渋谷公会堂)には、運よく当選し、参加したので、小沢健二の生演奏と生唄は聴いたことはあったが、正真正銘のライヴツアーには初参加であった。  ツアーで回るのは、名古屋、大阪、東京のみで、どれもドームなどと比べると大会場ではないため、争奪戦になるだろうと予想できた。今私は東京に住んでいるので、NHKホールに申し込んだ。申込みは、1回/会場/人。予想していたとおり落選。2回目の事前抽選にももちろん申し込んだが、やはり結果は落選。同時にグランキューブ大阪も申し込んでいて、そちらはS席当選(いずれの会場も、砂かぶり席、S席、A席の3種類あり、第3希望まで入力必須、同じシートは選べないので、当選した場合、どれかの席に割り当てられる )。  大阪公演はGW中の土日だったし、ファンになってから30年超、初オザケンライヴに、オザケンを聴きながら学生時代を過ごした地で参加できるというのも、また何かの縁だと思った。  大阪公演の1日目、実家から会場に行くには、阿部野(天王寺)を通る。オザケンが音楽のメインストリームから姿を消してた間、私は一切追いかけておらず、2017年のカミングバック時からもそんなに注目していたわけでもなかったが、オザケンの公式IGなどでたびたび、新世界でのお子さんのショットが投稿されているのを見かけており、オザケンご本人か、お子さんがお気に入りなのか、ご友人の方が住まわれているなど理由があるのか、詳細は全く分からないが、天王寺界隈出身としては、大変な光栄だと思っていた。どちらかいうと、天王寺界隈は特に大阪出身じゃない人からは (時には、大阪の北部の人からも)ある種のdisrespectを向けられる ことが多い(私自身の体感として)が、もちろん私はこのエリアを愛している。 ********  少し話は逸れるが、オザケンを聴いていた高校生時代の私が通っていた「高等進学塾(通称、高進)」は、地下を大阪メトロ(もう、大阪市営地下鉄ではない)御堂筋線が通る、我孫子筋沿いにある竹澤ビルの5とか6とか7階にあった(と思う)。 土曜日、午後の講習...

ぼくたちはこのままイーヴン

 タイトル出典: 『結婚しない二人』by KAN  札幌にふらっと行ってきました。きっかけは他にあるけど、私的には、KANさんを偲ぶという意味もありました。ほら、KANさんは「イメージ出身地: 北海道」というのがファンの間ではよく知られていることらしいので。それに、長年、札幌拠点のラジオ番組のパーソナリティを務めていらっしゃったのですし。  でも結局、ファン歴の短い私は何をしたらよいか、よく分からなくて。KANさんがよく行っていたという( KANさんの公式X(旧twitter)情報 )ラーメンの大公というところに行きました。今の流行りとかではなくて、普通の札幌ラーメンということで、美味しかった。寒いから、体が暖まりました。 札幌の「大公」さん   KANさんのことを考えると、逆に、色々考えが止まらなくなってしまいそうで、曲を聴く気にならない時がある。札幌に行く前後は、そういうわけであまり聴いてなくて、1週間ぶりくらいに、東京で聴いた。最近の私には、ミドルテンポというのか、『8 days a week』とか『結婚しない二人』とか『Hong Kong Sayonara』とかが心地よいです。  ここで、『結婚しない二人』について。タイトルから、まあおおよそどのようなことを唄ってそうか、想像はできるし、実際そのとおりの内容なのだけど、よくよく考えて、『丸いお尻が許せない』以降、私が持っていたKANさんのイメージとは随分違っていることに気づいた。歌詞をまた抜粋しますが、   欲しいものはほとんどもう君は持ってるはず  ツーシーターの外車 トスカーナのワイン  堅めの肩書きに ジェントルなボーイフレンズ  あと何が欲しいのと詰めよるぼくに  君は勝ち誇るように言った  「理屈ぬきの強引さだけよ」     出典: 『結婚しない二人』by KAN    多分ですけど、女性なら、なんとなくこの歌詞の中の女性の気持ちが分かるのじゃないのかと思う。自立していて、一人でも生きていけるけど、誰かと一緒にいる、という状況で、でも、最後のところはその相手に、強く必要とされたい、といったような想いというか。時代錯誤かもしれないけど、うーん、そうでもないか、どんな人でも時々は、誰かに強く必要とされていると感じたいと思うか。そんな気持ちが、この歌詞のセリフに表れてるんじゃないかな。...

2つに分かれたストーリーか、紺色のマフラーか

 タイトルは、ある二つの曲の歌詞に出てくる言葉です。一つ目は1993年9月1日に発売されたcorneliusの『THE SUN IS MY ENEMY 太陽は僕の敵』で、二つ目は1992年1月29日に発売されたKANの『こっぱみじかい恋』。  私は、1993年の9月頃に、眠れなくて聴いていたラジオで上述のcorneliusの曲を聴き、衝撃を受けて、cornelius、そこから派生して、Flipper's Guitar、小沢健二、pizzicato fiveとその周辺のartistsを聴き始めることになります。  そういう年頃だったこともあり、当時の私はひねくれていて、雑誌のインタビューなどで見るcornelius=小山田圭吾の「世の中を薄ら笑いを浮かべながら眺めているような態度」に、不幸にも、共鳴してしまい、どんどんそういうattitudeを強めていってしまった。  今となっては、その「世の中を薄ら笑いで眺めてる」のように(実際の表現はちょっと違うかもしれない)表現されやすい小山田のイメージは、メディアが作り出しているもので、私たちは、その小山田像を崇めていただけだった、と思う。  でもそんなこと、他のどんなアーティストだってそうだし、言ってしまえば、自分ではない人に対してなんてみんなそう。自分の中の勝手なイメージがあって、それを正としてしまうというか、正として進めないとどうしようもない。  いつものように、横道に逸れ始めたので戻ります。 それで、勝手な小山田像が私の中で独り歩きし、とにかくJ-popヒットチャート上位にあるような曲をよいというのはちょっとダサい、みたいな精神で10代の後半を過ごしてしまった(実際はそういう曲も聴いていたし、カラオケでも唄っていたけど、心意気として)。そんな経緯で、私の消費者としての音楽史は、93年までの素直な小中学生の時間軸と、93年以降のひねくれた時間軸というパラレルワールドが出来上がってしまった。とはいえ、実際は素直な小中学生時間軸は、93年で一時休業状態になっており、2023年末にJ-popの重鎮(?)ともいうべきKANによって再開することになるのだが。  ここでさらに始めに戻る。中学生の私は『THE SUN IS MY ENEMY 太陽は僕の敵』という今思えばちょっと恥ずかしいタイトルの曲を聴いて、「こんなメロディと...

繰り返す表現のみが唯一の存在意義です

(タイトル出典: 『songwriter』by KANの歌詞を一部抜粋)  (タイトル出典がKANさんなのに、いきなりオザケンの話題で申し訳ないが)オザケンがinstagramと X で、小沢健二の作品のうち、ファンからの人気が高いと思われる『ぼくらが旅に出る理由』について言及した。ギターコードに関しての話だった(図1参照)。 図1 小沢健二公式instagram(@sokakkoii)2024年1月8日の投稿  おそらくギターを弾いたり、作曲する人にとっては、意味を理解できると思うが、私を含めた大抵の人は何のこっちゃ、だろう。でも、私も幼少期にピアノは習っていたし、ここ20年ほどギターを''触って''はいるので、どのような話かは何となく、本当に何となく分かった。和音という概念がある。単一の音ではなくて、何個か一緒に弾いて、じょわーんというあれです。それのベース音をどうするか、ということで、普通(というのも表現が乏しいのは承知の上だが)の和音に、ベースの音を追加することで、低音が響く、というか何か別の効果を付与するというか、そういう感じで、そういう点にこだわって、曲をアレンジしているよ、ということだと思う。 ********  ここで、ふと思い出したのである。KANさんの『プロポーズ』(1991年5月22日発売の「ゆっくり風呂につかりたい」に収録されているヴァージョンのもの)を。何度も何度も何度も、このブログで書いてるが、私はKANさんのファンじゃなかったけど、『プロポーズ』を特別に思っていた、平たく言えば、ずっと大好きだった。KANさんに対して、警戒''体制''を取っていた若かりし日の私だったが、そういった世の中のめんどくささのようなもの全てを凌駕するメロディの美しさがあった。音楽の専門的なことは分からないけど、三つ大きなポイントがあると思っている。一つは、イントロ部分の少し、ほんの少しうっすら感じる不安な感じ。鳥の鳴き声が少し大きすぎて、メロディから浮いてる感じもあって、それも含めて。二つ目は、1番の歌詞で言えば、「(おいこしたりは)しない〜」の箇所 (1番では2箇所、2番では4箇所、コードで言えば、Gm7) のメロディの、不安な感じとKANさんの声とビブラートの妙であり完璧なバランス。三つ目は、2...

きむらの和菓子(書籍のレビュー)

  KANさんがこの世界ではないどこかに出発されてから、KANさんの歌詞集があるということを知った。KANさんのファンでもなんでもなかった私だが、『プロポーズ』という曲はいいなと長年思っていて、LOVEソングなんだけど、歌詞が少し独特だと感じていたので、その解説が読めるなら読みたいと思って、タワーレコード新宿店に在庫があるというタワレコ新宿店のtweetを見たので行ってみたが、なかった(その後また補充されたようだったが)。しかたなく、amazonの定価より少し高くなっていたものを買った。 “しかたなく”というのは「amazonは契約労働者の搾取の問題がある」し、「定価との差額が、別にKANさんをサポートするわけではない」からだ。  ちょっと話がずれたけど、とにかく年末にその本が届いた。まず思ったことは、どこにどの歌詞があるか分からない。 目次自体も見つけにくい。さらに、アルバム別とか年代別とかあいうえお順とかではないので、曲が並んでいる順番に規則があるのかどうかも分からない。...と「ないないづくし」の読者泣かせな書籍なのである。もしかしたら、私が一見さんだからかも知れないが。(ここまで読んで、否定的なレビューだと決めつけないで、最後まで読んでね❤)  普段、なかなか歌詞を読むということもしないのと、KANさんについては、まだまだ知らない曲の方が多いので、曲を聴く前に歌詞を読むというのはどんなものか、ちょっと新鮮な気もした。とはいえ、『プロポーズ』の歌詞は諳んじることができるので、 この曲については歌詞ではなくて「本人による曲の解説」を読みたかった。  ところが、なかなかそれが見つけられない!始めの方に出てくる目次には『プロポーズ』がなく、焦る。もしかして載っていない?そういや歌詞集であるということ以外、何曲載っているのか、全曲載っているのか、全ての解説があるのかすら分かっていない。   幸い、すぐに『プロポーズ』のページは見つかった。解説らしいものも読めた。ふーん、そうなのか!(ネタバレになるので言及しないでおきます❤)  この仕様(曲の順番、章分けの意図が明記されていないこと、また、章によって解説記載のデザインが一様でないことなど)はわざとなのだろう。こんなのおそらく長年のファンでも迷宮入りすると思う。わざとなのだ。だってその方が楽しいもん。どこに載っ...

君はいないんだね

  12月以来、KANさんの音楽をずっと聴き続けている。2023年の終わりに、「そもそもファンじゃなかった私が、KANさんの不在を感じることはない」と書いたけど、新生ファンなもので、色んな情報を求めて、年末からずっと、インタビューとか、書籍とか、X(旧twitter)で他のファンの方のtweetなどを読んでいたら、日に日に、KANさんの不在を強く感じるようになってしまった。   KANさんの音楽を聴き進めていくうちに、KANさんのパフォーマンスに魅了され引き込まれ、そう か、私はKANさんのライヴパフォーマンスを、未来永劫体験することはできないのだな…と強くKANさんの不在を認識し、深い絶望感が押し寄せてくる。ファンの方が、昔のライヴやラジオ番組などの思い出話をしているのを見て、くやしいと思う。でも、そんな絶望の中でも、逆説的だが、KANさんの音楽は、大丈夫、悲しまないで、怒らないで、KANさんが残してくれたものがたくさんあるよ、と私を慰め励まし、さらには前向きな気持ちになれる場所まで連れて行ってくれる。気がする。  しかし、そもそも『丸いお尻が許せない』が許せない私にとって、KANのファンになるというのは、人生における結構なチャレンジだと思う。『丸い...』以外の曲でも、タイトルに戸惑い、言葉に戸惑い、内容に戸惑い…。思想的に...特に彼の社会認識や政治思想などに、色々、本当に色々と引っかかる。引っかかっては、その都度、彼の言葉やメロディにさらに耳を傾け、どういうことを言っているのか、理解しようとする。年末に届いたKANの歌詞集「きむらの和歌詞」を手に取って、曲の解説として何が述べられているかな、何か述べられていますように、と祈るようにページをめくる。  真意を知りたいと思う。真意までは到達できないとしても、せめて意図を知りたい。いや、それも難しいなら、この際、意図があるのか、意図がないのか、それだけでもいい。  そんなことを繰り返して、KANさんがこの世界に居ないことに打ちひしがれた。 ********  aikoが、上述の書籍の帯で「(長年ファンをしているけど、まだ分からないところがたくさんあって: 意訳)魅惑の男なんです」と言っているのを見て、それなら私も既に気づいている、と思った。数十年来のファンの人には、熱量は到底かなわないし、挑めないなんてこと...